藤井省三県議(自民)に聞く

―9期という長い議員生活ですが、まず、初当選は。
 藤井省三県議=鳥取県議会議員だった父が昭和55年、74才で亡くなりました。七期
連続当選を果たした直後でした。これを最後に引退といっていたのを記憶しています。
 一介の教員だった父は、独学で、「文験」といわれる文部省検定試験をパスし、学務
課長、県視学、そして、民生部長と駆け上がりました。
 時の西尾愛治知事がブラジル視察から帰ってこないことから、リコール運動が起こり、
社会党の遠藤茂知事が誕生しました。結果、父は人事課付けとなりました。そこで、
県議会議員に打って出て、四年後、土谷栄一議員とともに、建設省事務次官であった
石破二朗さんを知事に迎えたと聴いています。
 そして、昭和57年の補欠選挙に、後援会から私が指名され、当選しました。厳しい選
挙でした。41才でした。当時、東伯郡にあった九ヶ町村の全べてで、毎日のように、
「立ち会い演説会」があったのが懐かしい思い出です。

―医師から転出された訳ですね。 藤井=私が、政治向きの人間だとは思ってもいません
でしたが、精神科医師というのは、患者さんの前で、白衣を着て、しかも、上座に座って、
患者さんに、いろいろ人生の在り方だとか、人格形成などについて、アドバイスをする癖が
あって、いざ、自分が窮地に追い込まれた時に、逃げる訳にいかないなという思いがあり
ました。
 最後は、「私も頑張るから、患者さん達も頑張って病気を克服して下さい」という気持ちで
した。自ら追い込んでいったようなものですね。

―自身の政治姿勢について。  藤井=横柄なようですが、「私で良かったら、選んで下さい」
というのが基本的な考え方でした。これは今でも変わりません。どの選挙を問わず、今の選
挙は、勝つことが目的化し過ぎているように感じます。
 もっとも、私の立場は恵まれていたのでしょう。落選すれば、医師に帰れるわけですから。
でも、チャレンジする人は、例え落選しても、周囲から、見捨てられないとは思います。
民主主義の根幹である「選挙の原点」に立ち返る必要があるのではないかと思います。

―今度の総選挙にも当てはまりますね。
 藤井=今回の衆議院の解散、総選挙は、国民から見れば党利党略に見えますね。
 安倍政権は、うまくいけば、これまでの二年と、今後の四年、合計6年間保証されることに
なる。
 国民にとっては、安定政権は望むところでしょうが、その目には、このような、別の面が透
けて見えているのではないでしょうか。

―印象に残っている知事は。  藤井=私が直接その謦咳に触れた知事は、平林鴻三、西尾
邑次、片山善博、現在の平井伸治知事の四人ですが、私が見聞きしたところを総合すれば、
人格的に多少気になる点はありますが、土谷栄一、藤井政雄が対峙した、石破二朗知事が
最も偉大な知事だったと思います。
 まさに、「石破の前に石破なく、石破のあとに石破なし」という言葉は生きていると思います。
 「後進性の打開」という名文句のもと、石破知事は、教育振興、福祉の充実から、産業興し、
道路網の整備など、ハード面から、ソフト面に至るまで、現在の鳥取県の根底に、石破さんの
息吹を感じないものは無い。
 そして、立派な知事の下には、立派な県議会議員がいたのも事実だと思います。

ーなるほど。
 藤井=平林鴻三知事は、石破知事の熱心な後押しで実現しました。平林剛三(ごうぞう)と
も呼ばれ、道学者のような見た目と違って、頑固な人であったようです。
 古井嘉実さんの後継者として、知事在職途中で、衆議院議員に転進され、知事としての本領
を発揮するまでに至らなかったようでした。誰に対しても公平であろうとされた人でしょう。
 西尾邑次知事も、私心が無いという点で、立派な人でした。ただ、一部議員につけ込まれた
面もあり、議員間に不信感が起こり、「創造」などという若手中心の会派が出来たのもこの頃で
した。
何せ、日本経済が最高潮の時代でしたから、結果としては、西尾知事の事蹟は、石破二朗知事
に迫るものがあったのも事実でした。

―昭和60年の「わかとり国体」は、西尾知事のときでした。その後、片山、平井知事と続きます。
 藤井=片山、平井のお二人も傑出しています。その意味では、鳥取県は、格別に恵まれてい
ると思います。
 片山さんは、きちんと自己を主張する人で、行政と議会とが一緒にやろうではなく、対決して
議論を深めていこうという感じだった。「学芸会」発言は、その線上にあって、議会の在り方を
正しい方向に持って行かれた点は、片山知事、最大の功績ではなかったかと思います。
 喧嘩の仕方を知っていて、それを楽しんだという感じさえ致します。
 長年、解決を拒んだ「ウラン残土問題」を、いとも簡単に司法に預けて、解決してしまいました。
政治的に解決しようとしなかった点、三権分立を絵に描いたようでした。

―平井現知事は。
 藤井=平井知事は、議会と対決するのではなく、一緒にやりましょうという姿勢にみえます。
ただ、常に新しい発想、構想を持ち、提示される。一緒にと言いながら、常に先を越されている
という感じがしている。一人の優れた経営者のように、私の目には映る。
 それにしても、原稿を持たず、数十分の間よどみなく続く答弁、スピーチには驚かされる。
才能といってしまえばそれまでだが、恐らく、長年の想像を超えた努力、訓練の賜だろう。
 昨年の植樹祭で、天皇皇后両陛下の前での、原稿なしのスピーチは、その白眉をなすもの
だった。涙する聴衆がいたほど、周辺に感動を与えたことは忘れない。
 最近、原稿を見ないで、質問しようとする若い議員が現れたことは、今後、議会が新たな段階
に入る予兆のように感じる。これだけでも、知事としての一級の功績といって良いと思う。

―その平井県政の3期目へは。
 藤井=期待したいですね。年齢的にも脂がのっている。
 ただ、多くの場合、二期目までは、後ろを振り返らないが、三期目になると、丁度、峠に登りつ
いて、一服という気持ちが芽生え、そして、やおら新しい頂上へ動き出す。しかし、そういう流れ
は、私は肯定したいと思います。

―藤井県議が、参院選に出られたときのエピソードを。
 藤井=坂野重信元自治相が死去され、それに伴う補欠選挙でした。
 日本海新聞と関係の深かった田村耕太郎さんが、自民党公認で出馬された。メディアの公正
さを守るための挑戦という意味も大きかった。
 県下80%のシェアを誇る新聞(公器)が権力を握るという事態は、心配でした。これに対する、
私の個人的な挑戦でした。
 ただし、個人的には、私は田村さんには好感を持っていました。彼は、三十代で、徒手空拳、
知事選挙に出馬され、自民党公認の片山善博さんに挑戦された。彼は政治家向きの人だった
と思います。

―さて、日本は少子高齢化、人口減少時代に入っています。将来の国の労働人口が心配され、
地方の過疎化も言われて久しい。藤井県議は道州制論者ですが、それらを絡めて。
 藤井=私が参議院選挙に臨んだその時、実はバブルが崩壊し、デフレ経済が持続し、その後、
「失われた20年」と言われました。
 参議院選挙のテーマは、バブル崩壊に次ぐ、デフレの克服だったのです。しかし、私には、その
意味も、対応の仕方も皆目見当がつきませんでした。
 そして、その後、十数年して、藻谷浩介さんの「デフレの正体」という本が出て、「生産年齢人口
の減少」が、その原因として取り上げられました。
 今から思えば、バブル崩壊は、金融資本主義といわれるものの走りであったのかも知れません。
アベノミクスの危うさは、株高、円安が、実体経済が伴わないところにあるのでしょう。心しなければ
ならないことだと思います。
 私が、道州制論者と決めつけられることには、多少の抵抗感があります。ただ、中央集権国家が
正しいとは思いません。それを打破して、地方分権、地方主権を主張するのに、ほかに方法がある
かということです。
最近、「地方創生」と言われます。またぞろ、国が地方を創るのか。それでは何も変わらないでしょ
う。「多様性を認める」ということは、政治の上では、地方主権の上でしか成り立たないと思っている
のです。
 グローバル経済は、資本主義を窮地に追い込んでいるようです。格差があって、資本主義が成り
立つ。格差と資本主義は同義語であると考える人がいます。
 これ以上、ドラマチックな経済成長をしなくても、私たちは、十分すぎるくらいの文明生活を送って
います。高齢、少子社会は、ゼロ成長社会の中で、より良い生き方を模索する時代に、すでに入っ
ているのかも知れません。
「里山資本主義」は、その解のひとつでしょうか。

―勇退を決意された理由は。  藤井=新しい時代に、私が貢献できる範囲が狭まっていくのを感じ
ている。いわゆる「潮時」でしょう。
 また、多少の余力を残して、次にバトンを渡すのが正解ではないかと思いつつ、長年の生活が
変化することに、一抹の寂しさを感じるのは、逆説的な言い方ですが、次を継ぐものが、早めの交代
によって、なにがしかのプラスを得ているからではないでしょうか。

―県議生活に悔いなしですね。  藤井=悔いが無いどころか、長い県議会生活の中で、思いもよら
ない、たくさんの経験をさせて頂いて、心から感謝しています。
 わたしに、この県議会議員という経験がなければ、人生そのものに、大きな悔いを残していたこと
でしょう。
【藤井省三(ふじい・しょうぞう)氏】昭和57年3月鳥取県議初当選。以来、9期連続当選。
平成9年〜11年県議会議長として議会改革に努める。現在、県議会自民党会長。鳥大医学部卒。
昭和16年2月24日、東郷町(現湯梨浜町町)小鹿谷生まれ。今期限りで勇退を表明。
      ◇
【注】公選後の歴代鳥取県知事(敬称略)。
▽初代・西尾愛治(1947年4月12日〜1954年11月7日)
▽2代・遠藤茂(1954年12月7日〜1958年11月10日)
▽3代・石破二朗(1958年12月3日〜1974年2月22日)
▽4代・平林鴻三(1974年3月27日〜1983年3月9日)
▽5代・西尾邑次(1983年4月13日〜1999年4月12日)
▽6代・片山善博(1999年4月13日〜2007年4月12日)
▽7代・平井伸治(2007年4月13日〜現職)

【注】2002年10月 坂野重信元自治相死去に伴う補欠選 田村耕太郎氏が9万0274票で当選。
藤井省三氏は3712票差で次点。

「藤井省三県議H27対談」