政経レポートに連載された「不登校=三人の子供との十五年」を読んだ。
 壮絶、壮大なドラマを見るようだった。三人の子供が、次々と不登校に陥っていく。塾、
宅浪、行方不明、通信教育、大検、大学受験、資格取得、そして、社会へ。
 その間、壊れなかった家庭。不登校に襲われた家庭。それを救った家庭。それらは、み
な、同じ家庭であった。
 著者は、「終わった」とつぶやいたが、終わってはいない。不登校は克服されたが、人生
はまだ続く。今後、「事件」が、まったく何も起こらないわけはない。 しかし、この十五年
の経験は、それらの事件を解く鍵を授けてくれたのだと思う。

 子供が何事もなく育ってくれているかどうかは、すべての親の心配事だ。薄氷の出来事
に違いない。何事もなかったかに見えるのは、そう見えるだけであり、そのこと自体が、
ただ、運がよかっただけである。
 そこから見えてくるのは、人が生まれ、そして、死んでいく。その過程に起こる「出来
事」であり、善・悪を超えた人生そのものが見える。評価すること自体がおこがましい。


 そもそも、不登校とは異常なものなのか。子供達が、限られた居場所のなかから、それ
を選択したに過ぎないのではないだろうか。
 社会のあり方、教育のあり方をそのままにして、不登校を無くそうとする必死の努力が、
教育現場や、社会に、別の歪みを生んではいないだろうか。
 逆説的な言い方になるが、不登校は、学校の「義務化」が生んだ問題とも言える。教育
現場には、いわゆる自由化や、複線化が求められているのではないだろうか。
 われわれは、不登校という現象を、人間生活の上での普遍的な現象ととらえて、新しい
「制度」を探し出すきっかけとすべき時にきているように思う。

 今年、日本は東日本大震災に見舞われ、二万数千人が犠牲になった。しかし、時は静か
に流れ、人々は、新しい生活の流れの中に散っていく。
 まるで、不登校一家を襲った嵐を、その家族がともに、闘い、耐え、克服し、やがて、
記憶の奥底にしまい込むように・・・。


 国も世界も変わる。
 いよいよ、「変化の兆し」が動き出した。ヨーロッパ危機、人口爆発、環境破壊、テロ対
策。
 国内では、震災復興、普天間基地移設問題、TPP参加、消費税増税と社会保障改革、
そして、大阪都構想、教育基本条例などなど。

 変化とはいいものであり、悪い変化というものは存在しない。そして、新しい時代とは
どんな時代なのかさだかではないが、元に返るという方策は存在しない。


「不登校」