優しかった「ケイジン・パワーズ」

 子供の頃の私の夢は、プロ野球選手になることだった。それを恐れたのだろう、私の母親は、学校時代に野球部に所属することを許さなかった。

 私がその夢を果たしたのは、鳥取大学医学部に入学してからであった。私は、新人テストで先輩の命じるままに、初めてトップボールを握ったままレフトからダイレクトでホームベースへ返球した。
 その瞬間から、私の野球人生は暗転した。肩を壊した私は、以後、得意のバッティングもピッチングも守備も精彩を欠いた。そして、遂に、自ら野球部を退いた。
   
  しかし、医学部を卒業すると、医局対抗野球大会が盛んに行われていた。精神科は常勝チームだった。
   卒業後、精神科に所属した私はそこでは大いに役に立った。しかし、肩を痛めて以来、キャッチボールもままならない私は、自信を持って野球に取り組めていたわけではなかった。

 そして、遂に、私にもそれらしき春がやってきた。鳥取県議会議員になっていた私に、県議会野球部の投手が命じられた。
 当時は、県議会同士で行われる中国大会と全国大会があり、一年中野球をやっている感じだった。
 しかし、そこでもストライクが取れない私は、五年間で二勝して終わった。何故なら、五年後に、甲子園投手の鍵谷選手が県議会に当選してきたからである。


















 
 
 私は、ますます野球から遠ざかっていった。多分ここ十年は野球をしていなかったと思う。


 昨年、常勝・鳥取県議会チームは優勝を逃した。そして、今年、鍵谷監督は優勝の為には藤井一塁手が必要だと判断した。

 私は、壁に向かってひたすら投げた。野球に関する本も手当たり次第に読んだ。そして、四十年ぶりに肩の痛みを感じないで、見事なスナップスローが還っていた。
 
 私は、ここで、野球と永久に縁を切るかどうか迷った。しかし、私は、ケイジン・パワーズの限りなき優しさのお陰で救われた。
 ケイジン・パワーズは、私のよいところだけを褒めてくれた。「よくあの年で・・・」「センスはある」などなど。

 そして、私は、決心した。もうしばらく、野球で苦しんでみようと・・・。







 「失われた四十年」を、遂に取り返した私は、一度、「ケイジン・パワーズ」の試合で、その復活振りを試してみようと思った。

 ケイジン・パワーズの試合で、一塁を守った私は、その若さのスピードに圧倒された。薄暗い照明の中で私の視力の衰えに驚いた。一塁に走る私の脚は、無駄に空回りしているようだった。
 走れない、守れない、打てない。いったい何の為に、練習をしてきたのか、無理に自分を惨めにする為かとさえ疑った。