片山県政の光と陰 

はじめに。

 この度の県議会は、一面では、「片山県政の総括」という言葉でくくられる県議会でもあろうかと思います。
 沢山の議員の皆さんが、それぞれの角度から、それぞれの立場から、片山県政を反省することは、過去の県政を評価する上でも、さらに、将来の県政のあり方を探る上においても、絶好の機会を提供されたものと思います。
 いろんな見方があるでしょう。集中的に重複する部分も出てくることでしょう。
 しかし、かつて、これ程、終局を迎えた県政を振り返ったことはないと思います。
 これは、いいかえれば、それだけ片山県政には魅力があったということであり、たとえそこに、知事にとって耳障りな意見があろうとも、これは、知事に対する最大限の敬意の表れだと思うのであります。

1 学芸会

 知事就任直後、あらゆる根回しを封じる行動に出られた片山知事は、「議場で全てを決めよう」と胸を張られました。これは、議会の議決が全てに優先することと、議員議決の責任の自覚を迫ったものでした。
 質問と答弁を事前にすりあわせる行動を廃し、いきなり議場での質問戦を仕掛けて来られたのであります。
 執行部職員の皆さんが、事前に、質問要旨を掴もうとする動きは今でもありますが、少なくとも、知事は、そういった動きに無関心を装い通して来られたのであります。
 これは、とりもなおさず、議会で過半数を占める、いわゆる与党の効果を破壊するものでもありました。
 そして、議場での議員一人一人との対話が重視されようになったのであります。あらゆる政党の議員の皆さんに対して、一人の議員として、丁寧に応対されていたのを記憶しております。
 それが、結果的に、二期目の選挙で、県政史上初の無投票に繋がったのではないかと、私は思うのであります。
 余談はさておき、そんな矢先、岡山県でのメディアのインタビューに答えて、「鳥取県議会は学芸会」と言い放たれたのであります。
 これは結果的には、大いに県議会の活性化に繋がったのであります。
 当初、わたしは、これは、国会用語を転用したものだと思っておりました。国会が、そういう表現で自らを揶揄していたのを、メディアのインタビューで知事が借用したのだと思い、悪意には取らなかったのであります。
 しかし、この種の発言は、人に言われるのと、自らを揶揄するのとでは全く意味が違ってくるのであります。
 これによって、知事は、議会に、徹底した対立構造を持ち込んだ結果となりました。
 これで議会は、発憤し、一時は日本一の議会初の条例制定県になったのであります。しかし、くだんの人権条例の辺りからおかしくなってきました。人権条例が止まって以後、議会は息切れをしたのか、対立疲れしたのか。議会初の条例は一本も出されていないのであります。
 一度、法律関係者の手に渡ってしまえば、人権条例が成立する確率は少ないと私は見ております。
 そのとき、知事提案か、議会提案を承認しておれば、それが不備な部分を持った条例とは言え、人権先進県として、一歩前進していたかもしれないのであります。
 その意味で、この極端な対立構造は、長期的に見れば、知事の見込み程には、有効に機能しなかったと言っていいのではないか疑うのであります。
 結果的には、県民の代表たる議会と手を組んで進む方が、効率はよかったのではないかと思います。
 この点、知事は県議会の機能強化について、必ずしも熱心だとは、私には思えませんでした。議長の議会召集権は見送られたままであります。
 議会の権能強化は知事の権能の縮小に繋がることになります。一方で、議会の活性化、義務、責任を唱えながら、実は、議会が力を持つことに警戒感があったのだろうか。あるいは、議会はまだ成熟していないと判断されていたのかどうか、ご所見を伺いたいと存じます。

2。ホテル税。

 次に、私にとって忘れられないものに、「東京都のホテル税論争」がありました。この論争で、知事は終始、「税のメッセージ性」を説かれました。
 当時、東京都は、ディーゼル車の排出ガス規制の為に、東京都に入るディーゼル車に税を課したこともあって、大いに説得力がありました。私も知事の論理を信じた人間の一人でありました。
 しかし、わたしはその後、消費税のいわゆる損税を勉強する過程で、思わぬことに気がついたのであります。
 知事の論理でいけば、消費税はどんなメッセージを国民に発しているのでしょうか。それは、すなわち「消費するな」ということになる筈であります。
 税には全てプラスのメッセージが載せられてはいない。東京都に立地するホテルは、東京という名の、すなわちブランドの利益を受けている。
 従って、東京都に立地するホテルは、税を支払うに値するのだとわたしは思います。
 しかし、これも、石原都知事の小説家らしくない粗雑な反応によって、知事は、この論争に勝利しつつ、且つ、うまくメディアに乗ることに成功しました。
 この辺りから、鳥取県知事は、時代の、そして、メディアの寵児になっていったのであります。
 その発言は、ことあるたびに、全国的メディアの注目を集め、知事の職務を果たす上で大きな助けになったのだろうと想像いたします。
 中央と戦う際に、メディアを味方につけた知事は、戦う前から勝っていたと言っていいのではないでしょうか。
 巧んでか、巧まざるか、驚くべき戦術であり、戦略でありました。
 そして、鳥取県を実態以上に大きな存在にし、大きな利益を受けることにもなりました。しかし、そこには同時に、少なからざる陰を生んだいたのであります。
 それは、知事が二期目のマニフェストの中心で揚げられた、いわゆる「自立」についてであります。
 一人で先頭を駆け足で進む知事の後をついて八年、その優秀さ故に、一人で決め、実行するかに見える知事と県民との距離は、益々広がっていくように、私には映っていました。
 県民は、自立には程遠く、「お任せ県政」に傾きつつあったのではないのでしょうか。
 それが全てではないにしても、知事もそれを察知しておられたが故に、二期目のマニフェストに「自立」を掲げられたのではないかと思います。いかがでありましょうか。

3。ウラン残土。

 岡山県議会において、社会党議員の質問に答えたときの長野史郎知事の「他県で危険なものは受け入れない」という一言によって、当時の東郷町方面地区のウラン残土は、その行き場を失ったのであります。
 わたしが残念に思うのは、この質問と答弁が行われる前に知事同士のトップ会談がセットされていれば、こんなに捻れた関係が続くことはなかったと考えておりました。
 以後数十年にわたって、それぞれの立場で、あらゆる知恵を絞ったにも拘わらず、岡山県、動燃、東郷町、鳥取県の間で身動きのつかない状態が続きました。岡山県知事が変わった後でさえ、この状態は延々と続いたのでありました。
 この硬直状態を、いともあっさりと動かしたのは、片山知事でありました。「動燃が責任を持って処理すべし、それが出来なければ法によるしかない」というものでありました。
 われわれ日本人は、法治国家に住んでいながら、意外と法律を活用することになれていないということを、その時、実感した次第であります。
 裁判所は三審ともに、動燃の責任を認め、不履行の場合は罰則まで付したのであります。
 結果は、動燃に隣接する、三朝町にある鳥取県教育委員会所属の演習林を一時的に活用するという方法がとられ、十八年にわたる困難を見事に整理されたのであります。
 この演習林は、前知事時代に、一度、話題に上った場所でありましたが、当時は三朝町議会の反対で実現しなかったところでありました。
 最終的には、三朝町の温情という形で、解決を見るに至りましたが、これは知事と三朝町長の間に、強い信頼関係があったればこその出来事でありました。
 とはいえ、解決への切っ掛けは、法に訴えるという最も単純で、且つ見事な方法だったことに、あらためて驚きを感じた次第であります。
 この一連の流れについて、何か感想があれば伺いたいものであります。

4。「出ずるを計って、入るを制す」。

 もう一つ、知事の言葉で忘れられない物として、「出ずるを計って、入るを制す」という言葉であります。
 これは、要するに「要るだけ、頂きましょう」という発想であり、租税で運営される行政のあり方としては、言われてみれば、至極、当然なことでありました。
 しかし、地域の活性化や、経済的な豊かさを求められる現在の行政では、財政学の基本と洒落てはいられない事情があります。
 したがって、現実は、「入るを計って、出ずるを制す」が正しく、実際、鳥取県庁も、交付税や、補助金に関して、そういう運動も国に対して行われているように思われます。
 一体何処で狂ってしまったのか。「出」をまかなう「入り」を膨大な借金でまかなっている現状は、行政の守備範囲をいつの間にか、国家全体が超えてしまった結果なのでしょうか。知事のご所見を伺いたいと思います。
 知事は着任早々、既に決まっていた大事業を次々見直されました。廃止、中断、規模縮小等々、まるで何かの恨みを晴らすかのような勢いでした。
 我々は、あの時点でこれらの事業は可能だと思っていましたが、知事は、着任早々にして財政規模が縮小していくのを予見しておられたことになる。大変な彗眼だと思います。
 実際に、八年前には五千億円あった予算が、今や一千億円減っているのですから、その激減は推して知るべしと言うことでしょう。
 国はバブル崩壊後、小泉政権に至るまで、借金に借金を重ねて、デフレ脱却を急ぎました。これが、成功しないという読みがなければ、踏み切れない対応だったと思います。
 「鳥取県版ニューディール政策」と「トータルコスト予算分析」の組み合わせが鳥取県を救ったかに見えますが、鳥取県の基礎的財政収支は、知事が返ってこないと信じておられる臨時財政対策債を除くと、依然として赤字であります。
 こんな厳しい状況を抱えながら、どんなに苦労しても、誰にも解ってもらえないとしたら、苦労をさらに重ねる動機付けは不可能だろうと思います。知事の心境の一端をかいま見るような気が致します。
 状況は、努力の限界を超えているかに見えますが、知事はどう評価をしておられるのでしょうか。

5。国のかたち。

 日本は、戦後のめざましい経済成長の中で、超円安の状態で、実体経済の数倍の贅沢を享受していました。
 昭和六十年、時の竹下総理が出席した、先進五カ国蔵相会議で、為替レートに、はじめて協調介入することになりました。これぞ有名なプラザ合意であります。
 結果は、一ドル二百四十円が百二十円となり、いわゆる円高不況へと突入していきました。
 直ちに、金融の緩和と、内需拡大、すなわち公共事業の増発が行われました。
 そして、その結果、いわゆる金余り現象が起こり、国を挙げての、すさまじい、株、土地を含めた資産への投機が始まったのであります。アメリカの有名なビル群を買いあさるという勢いであったのは、記憶に新しいところであります。
 そして、急激な金融の引き締めによって、平成三年、バブルは崩壊しました。金融危機が表面化し、山一証券はじめ、大型倒産が始まりました。
 小渕政権は、景気対策として、ゼロ金利政策、公共事業の積極的実施を行いましたが、再び奇跡は起きませんでした。
 大量の国債を発行した為、八百兆円の借金を作ったのであります。これは、じつに国内総生産の百五十%を超えるのであります。
 平成十三年、小泉政権が誕生し、それ以降、低金利政策と公共事業の削減を含む、財政投資の抑制が行われ、その方針にしたがって、道路公団及び郵政民営化、市町村合併、三位一体改革など、次々と小さな政府を目指して改革が続行されております。
 そして、その延長線上に、道州制への移行が考えられているのだと考えています。
 ヨーロッパ連合への加入条件の一つが、国内総生産(GDP)と、国債発行額の比率が六十%を超えてはならないことを考えると、日本がそこに至るまでには、今の好調な経済状況を考えても、少なくとも二十年はかかることになります。
 国内を覆う財政危機を前にして、国家の存亡をかけて、道州制は、復活への最後の手段と言っていいかと思います。
 今日までの、道州制についての知事の考え方は、消極的に聞こえますが、最終的には、分権もさることながら、破綻した国家財政の再建に寄与するなら、躊躇すべきではないとわたしは思っています。
 中国州が出来ることによって、知事の言われる如く、鳥取県が一寒村になるとは、わたしは思わないのであります。
 その理由とは、県境というものが、今日まで如何に邪魔な存在であったかを知るからであります。これはとくに中海圏を二分して、折角の山陰の中核都市の発展を阻害しただけでなく、様々な紛争のもとを作りました。
 これだけでなく、県境が無くなれば、全国一小さい鳥取県は、前述の中海圏、蒜山、津山市、兵庫県北部を経済圏に組み込むことが可能になるはずであります。
 そして、むしろ北東アジアとの交流拠点として、特別に大切にされる筈であります。
 今のままだと、国はおろか、すべての県、市町村が、夕張市と同じ運命をたどることになりはしないでしょうか。知事の所見を伺う次第であります。

6。鳥取県のすがた。

 わたしが、一度、鳥取県のあるべき姿を問い正した時、それに答えて、知事は、北欧、とくにスエーデンになぞらえられました。
 福祉、教育、行政、その他、具体的にどの部分をなぞらえられたのかは判然としませんでしたが、総体的に、共感を覚えたことを記憶しております。
 わたしの印象では、セイフティーネットの安定し、その上、男女共同参画が徹底し、教育が充実していると感じます。個人が自立し、その為、民主主義が成熟しているという印象を持っています。
 知事は、このような見事な鳥取県の将来像を、こころに描いておられながら、それを具体的な計画として記録されなかったことは、まことに残念であります。
 これからすると、いわゆる「総合計画」を立てて、県民に、鳥取県の将来の夢を示すことは十分に可能だった思ったからであります。
 事業を行っているものには、経営理念を立てて、それにしたがって中長期計画を作り、その上で、当年度の予算を編成することが義務づけられています。
 特別に総合計画だからといって、事業名を立て、金額を記入する必要はないはずで、片山流の総合計画というものがあってよかったのではないかと、今でも思っています。
 この過剰な競争世界、共産主義社会の崩壊によって、世界中が、市場主義社会の崩壊によって、世界中が、市場主義経済に組み込まれました。グローバル競争は止まることを知らない状況であります。
 安い労働力を求めて、日本のみならず、先進国の企業は世界中に事業を展開しております。
 そして、その実は、企業家は心を休める暇も無いことでありましょう。こんな社会が、一体正しいのだろうか。
 知事が、鳥取県の理想として、北欧を上げられたのには、そんな理由があったのだろうかと想像しておりました。
 鳥取県のかたち、今後の社会のあり方について、所感があれば、伺いたいと思います。

7。日野郡民会議

 知事は、組織作りにもユニークな発想を発揮されました。
 防災監、防災局の設置は、災害を未然に防いだり、災害発生後の対応が、県行政最大の課題として、県職員、県民に意識付けられたことは大きな出来事であったと思います。
 いわゆる「図上訓練」などはいかにも新鮮に映ったものであります。
 ここでは、日野郡民会議の設置について、その発想の根拠とその評価についてお尋ねしたいと思います。
 当初の問題は、そこに県議会議員がおられ、町議会も存在する。その上にさらにとなると、三重構造になるという点と、その選出方法でありました。
 議会との折り合いがついて、「日野郡民行政参画推進会議」という名の組織が誕生しました。その名称を見るだけで、上記問題点が浮き彫りにされているように思えます。
 私は知事の発想は面白いと思いましたが、一定の限界があるだろう、いずれは見直しが必要だろうと思っておりました。
 あれから五年が経過しました。その評価と、今後のあり方について知事の所見を伺いたいと存じます。

8。二期八年。

 知事任期は二期八年が適当だという知事の考えに同調いたします。ただし、その理由は、知事が考えておられるものとは違うかもしれません。
 私が思いますのは、立派な知事が八年で去るのは残念ですが、そうでなかった場合、期限が決まっていれば、なんとか我慢ができるからであります。
 そして、一人の人間の中にも、よい部分とそうでない部分が混在しているのが常であります。
 その意味で、全ての県民に評価される人はいないはずであります。
 知事任期を二期八年とすることを法制化すべしという、知事の考えに賛成しますと同時に、国の法制化を待つまでもなく、この際、鳥取県で条例化すればすむことではないでしょうか。どうでしょうか。

終わりに。

 知事のユニークな発想は、教育や、警察行政へも及びました。示唆に富んだものも多く、もっと発言して欲しかったように思います。当事者でないだけに自由な発想があって、正鵠を得ている場合が少なくないと思いつつ聴いておりました。
 当局も、知事のユニークな発想を楽しむだけでなく、いろんな方面で、知事の発想を反映して欲しいものだと思います。
 正しい表現かどうかは別として、「自分のミッションは自分で決める」啖呵を切られた知事は、最後に誰にも相談しないで、自ら決断された。
 自立というものの本当のあり方を身をもって示されたように感じたのであります。
 退任を決意されてからの知事は、挑発的な態度が消えて、優しく、おおらかな心が潜んでいるように見えます。これこそ、飾らない知事の本当の姿なのではないでしょうか。
 それにつけても、知事にとって、この8年間は、じつに張りつめたものだったと思います。新聞に出る知事日誌を見ておりましても、まさしく、「東京通勤」そのものでありました。
 そこには、同時に、いくら努力しても、理解されないという悔しさがあったのだろうと理解しています。
 そういうものから、一切解放された知事の前途には、あらゆる可能性が開けています。鳥取県知事であったことを誇りとして、今後の道を歩んで行って頂きたいと切に願う次第であります。