ゼロ・トレランス
 「ゼロ・トレランス」という言葉は、アメリカで、校内暴力が蔓延した頃、その対策としてとられた手法である。
 トレランスとは「寛容」という意味で、ゼロ・トレランスとは、校内暴力やいじめに対して、寛容な態度を廃し、規則に則って厳格に処分することを意味する。停学、退学が頻繁に教師の判断で行われた。
 しかし、その結果は、合理主義のアメリカでさえも芳しくなく、見直しを迫られている。

 私は、トレランス(寛容)と、ゼロ・トレランス(非寛容)を通して、いじめ問題を考えてみたい。
 すなわち、ゼロ・トレランスという制度と離れて、人の性格を、「寛容の傾向の強い人」と、その対極にある「非寛容の人」に分けてみれば、興味あることに気付く。
 この二種類の人たちで、どちらが「いじめられる側」に立ち、どちらが「いじめる側」に立つかは説明の余地はないだろう。
 二人の間に、何らかの対立が起こった時、寛容タイプの人は、すぐには反応しないで、自分の感情を押し殺して、相手の感情を損なわないようにするだろう。
 一方、非寛容タイプの人は、相手に勝つことに主眼を置いて、即座に反応し、相手の感情を害することに、まったく意を用いないであろう。
 今、あなたが周囲を見回してみれば、あなたのそばにいる人が、どちらのタイプに属しているかは、すぐに判定出来ると思う。
 そして、常に自分の感情を押し殺して、耐えることを学んでいる人に、毎日のように、「いじめ」状況が強いられたならば、自殺を選択することは容易に想像出来る。そして、こういう厳しい状況に置かれている人たちは、世の中に少なくなく、報道に煽られて、一定期間、自殺が伝染病のように広がっていく。


 しかし、寛容タイプの人が、人として常に優れているわけではない。これらの人は、同時に、日本特有の「甘え」の強い人でもあり、時に決断力に欠けるだろう。
 「甘え」は、相手に寛容を求めている点で、ある意味、閉鎖社会日本に特有の心情である。
 非寛容タイプの人は、「甘え」と無縁であり、自立心が旺盛で、リーダーシップを発揮することに長けているかもしれない。
 前者は日本に多く、後者はアメリカに多いだろう。
 そして、この二つのタイプは、年齢とともに入れ替わることもある。特に、寛容タイプの人は、成長の過程の中で、多くは望ましい変化を遂げるだろう。鷹揚なリーダーシップを発揮し、周囲から慕われる。しかし、時によっては、力を得るに従って、いじめる側に変身さえすることは忘れては成らない。


 かっての日本陸軍の内務班には、これらの人たちが雑多に閉じこめられた。逃げ場のない一種の「収容所」であった。
 ここでは、あらゆる種類のいじめが展開され、自殺、殺人、逃亡、仮病などが頻繁に起こった。あたかも、人の原点を見るのに、これ程の場所はなかったのではないかと思われる。


 ところで、学校は、そこに行くことが義務であり、また、校区によって出席する学校も強制されている。
 すなわち、学校というところは、見えない壁を張り巡らした収容所ではないだろうか。内務班と同じ現象が起こっても、けっして不思議ではない。
 じつは、家庭とともに問題にされている「コミュニティー」も同病を抱えている。引っ越すことは簡単ではない、総事(そうごと)という共同作業が義務化されている。
 コミュニティーという収容所の中で、平成十年、和歌山市の「ヒ素入りカレー事件」が起きた。そして、翌年には、東京で、母親どうしが親友の、二歳児(春奈ちゃん)が、一方の母親によって殺害された。
 そして、学校や、コミュニティの問題が、家庭に持ち込まれ「虐待」が起こる。
 それぞれに異なった原因があるのではなく、全ては繋がっている。まさしく、閉鎖的、均一社会・ニッポンは、「収容所列島」と言っていい。


 こういう悲劇をなくすのに決定打はないが、原因に沿った、地道な、そして、総合的な努力は効力を発揮するだろう。
 家庭や、コミュニティに教育力が無くなったとすれば、その多くは、学校や、保育機関が受けて立つしかない。


 わたしは、いじめに対する極端な反応(自殺、暴力)を防ぐためにも、ディベイト(討論)教育は欠かせないと思う。
 その場で、ストレスを、きちんと解消していく教育は、いじめ自殺を防ぐ特効薬の一つだと思うからである。寛容タイプの多い日本人の間では、特に大切な訓練に違いない。
 それと同時に、読書教育の徹底が大切だ。文学のほとんどは、世の不条理をどう克服したかを綴ったものだけに、学ぶべきことは多い。張りつめた気持ちを和らげてくれるはずだ。
 わたしは、この度、安岡章太郎の「遁走」を読み返した。陸軍内務班の悲惨を描いているが、本来悲劇であるにも拘わらず、それぞれの出来事を笑い飛ばすことが出来たのは不思議だった。安岡氏の表現の仕方によるのであろうが、わたしにとって、大いなる救いであった。


 教育委員会の問題も放置出来ない。
 無責任体制をわざわざ作って、教育を漂流させているように感じる。予算権、人事権の所在をはっきりさせなければ、教育の自立はないだろう。
 そして、校区の縛りは、廃止されるべきだろう。学校間に競争原理を導入することは、最早、避けて通ることは出来ない。
 その上、学校経営のプロと、教育のプロは分けた方がいい。


 「少人数学級」の効果は、もはや、各国で証明されている。
 どの程度の人数が適当なのかは、きちんと検証されるべきだろう。わたしは、かって、一つのグループの最適の人数は八人だという記述を見たことがある。そして、グループが倍の十六人前後になったら、半分にする。
 卑近な事例では、二十四人の県議会自民党が、半分に分かれて、結構充実しているのは皮肉でもある。
 それには理由がある。人は一人では生きられない。一定の範囲では、求心力が働き、お互いの存在を大切にしようとする。そして、ある範囲を超えると、排除する力の方が強くなる。


 最近、介護の世界で、認知症のグループ・ホームや、新型特養のユニット・ケアが話題になっている。
 それぞれ、九人乃至十人のグループに別れて処遇を受けている。
 その理念は、職員が患者さんや、利用者のプライバシーを守るとともに、看護、介護に迅速、柔軟に対処出来ることにある。
 わたしは、学校のクラス単位にも、十人程度のユニット形式を採用すべきだと思う。これが、現実的でないというなら、少なくとも、二十人学級は、早く実現すべきだと思う。
 これに伴って、幼児教育、保育の大切さは一層大きくなるだろう。早急に介護システムに習って、危殆に瀕している家庭機能を補完するものとして、体系的な幼児教育、保育態勢の構築が求められている。


 少子時代、ことのほか子供が大切な時代、これは財政に優先すべき課題である。



 今年が、皆様にとって、いい年でありますように・・・