「責任と勇気と誇り」

 先日、日米野球をテレビで見ていた。
 場面は九回の表、得点はアメリカが九対四でリード。ツーアウトランナー一塁。そのランナーはいわゆるメジャーのイチローだった。
 メジャー通の解説者が言う。「こういう五点も差が開いた場面で、メジャーは盗塁をしないし、盗塁に成功しても公式記録には残さない」と。


 日本チームの一塁手は一塁ベースを離れて、ランナーがいない状態の普通の守備位置に移動した。そして、解説どおり次打者がアウトになって、チェンジになるまで、イチローは一塁ベースを動かなかった。
 この時、とっさにわたしの頭の中にひらめいた言葉は、ちょっと堅苦しい表現だが、いわゆる「武士道」であった。

 そして、日本人はとっくのむかしに日本人の専売特許であった、この日本精神をみごとに失っていることに気づいて愕然としたのであった。


 最近、官僚、政治家、企業経営者の、ことさら相手の弱点を攻め込むような無責任で、卑劣な犯罪が連続して起こっている。
 たとえば、外務省官僚の公金流用事件、中国審陽事件。鈴木宗男氏を中心とする政治家の不祥事。狂牛病に関する輸入牛肉ラベル張り替え事件など枚挙にいとまがない。


 そして、これらの事件の中に、日本人が、自らの「責任」を引き受ける「勇気」や「誇り」といったものが完全に失っているのを感じとるのである。
 その上、責任を逃れて生き残ることが人間として利口であるとか、または、「それが、いわゆる政治というものだ」、あるいは「経営というものはそんなものだ」とする、開き直りの風潮がありありと見えるのである。



 今、日本は深刻な経済不況にあえいでいる。企業倒産と失業はとどまるところを知らない。
 そして、バブル発生からその崩壊、そして現在のデフレ状態に対応する日本人の姿を見て思うのは、日本人がすでに失ってしまった責任と勇気と誇りと、これら日本の置かれたきびしい状況とが無縁ではないと思うのである。
 すなわち、国民が心の中で打ち消すことの出来ない「行き先の不安」の源泉は、日本を任せきれる、信頼できる政治家も官僚も企業経営者もいないと、国民自らが判断している結果ではないであろうか。


 皮肉なことに、破滅寸前の日産自動車を救ったカルロス・ゴーン氏には、この責任と勇気と誇りをみごとに見るような気がする。
 政治の世界にも行政の世界にも、こういう国際的人材を取り入れて思い切った「日本の構造改革」を遂行することが求められているようにも思う。
 そして、こういった手法は、明治維新そして戦後の復興期には頻繁に行われてきたのであった。



 本来、他を思いやり、几帳面で、正義感、責任感に富む日本国民は、世界の中で必要不可欠の国家、民族として、安定して存在し続けるものと私は信じている。
 その意味で、ハンチントン教授が自著「文明の衝突」の中で、世界八文明の中に、一国で一文明を構成するとして日本文明を取り入れているのも理解できるのである。


 この点から言えば、このところすさまじい勢いで経済的に台頭する中国への脅威論は的はずれなのである。
 自らが疑心暗鬼になるのは、自らのこころが卑屈になっているために過ぎない。いづれ、こころの拠り所を失ってさまよう日本人には、中国や北朝鮮のみならず、世界の全てが驚異として映ることだろう。



 いったい、何故こうなってしまったのだろうか。
 もちろん、第二次大戦に於ける敗戦は大きな転機になったであろう。貧すれば鈍すという。
 いずれにしても、国家と個人とを問わず、戦いに敗れたときの対応がその組織や、個人の価値を決めることに間違いはない。


 しかし、日本の場合、それ以前から国民性の変質が始まっていたような感じがしてならない。
 恐らく、天皇制と議院内閣制のはざまで、もたれあいの姿勢が責任や勇気や誇りをむしばんでいったのではないだろうか。


 いっぽう、司法、行政、立法の三権が分立していることが民主主義の基本といわれているが、日本の場合これがうまく機能していないように、わたしには思われる。
 司法は、憲法解釈に正面から取組むことを避け続けている。行政は、立法機関である国会から自立できない仕組みになっている。それは、行政を動かす内閣が、その基盤となっている政党から自立できないからである。



 思い切った改革が必要なことは誰しもが認めている。急がなければならない。
 そして同時に、責任と勇気と誇りを持った本来の日本人に立ち返ること、それが、正しい改革がなされるかどうかの鍵を握っているのである