「菊と刀」

 「菊と刀」。これは、戦後まもなく、アメリカからやってきたルース・ベネディクト女史の有名な日本人論である。


 その中心をなしたのは、日本文化を「恥の文化」と規定し、そこから、責任感の強さ、正義感、几帳面(きちょうめん)さ、正確性、清潔好きなどの日本人の特徴的な気質を引き出したのである。
 とくに、日本人の気質はうつ病と親和性があるとされてきたが、女史はそのことを「恥の文化」を通して、すでに把握していたのである。のちに、鳥取大学精神医学教室の下田光造先生は、これら日本人の気質を「執着性格」として規定され、世に問われた。


 私がアメリカに数ヶ月滞在して感じたのは、この日本人の「特有の気質」が際だって、しかも誇らしくさえ見えることである。そして、それは世界に類例のないものであり、これは日本人のというより、世界の宝と言うべきものだと思う。
 いまでも日本の製造技術はどの分野に限らず世界一であり、どの国も「永遠に」これを追い越すことは出来ないだろう。


 アメリカ人は実に鷹揚(おうよう)で、実用的だ。ゴルフでも、メタルレングスと言っては、パターの柄の長さの距離は打たない。日本人が50センチのパットにしゃがみ込んで考えているのとは対照的だ。
 わがアパートの洗濯機は、洗濯から乾燥まで立派にその機能を果たす。しかし、その音の大きさはすさまじく、とても夜中には使えない。


 レストランでの経験もおもしろい。最初から最後まで、自己決定を迫られる。ビールを頼めば、銘柄を聞かれる。どんな銘柄を持っているかを聞くと、一気にまくし立てられる。結局は最初に聞いたものを注文することになる。
 「何か適当にみつくろって」は通用しない。そのあとは、アペタイザー、スープ、主料理と果てしなくこの対話が続く。そして、この個人を極端に追及する仕方が、一方でアメリカ人に強迫神経症的な側面を与えている。アメリカ人が持つ鷹揚さは、この強迫性の裏返しにすぎない。
 日本人のうつ病とアメリカ人の強迫神経症。そして、実はこれが地続きであることは知られた事実である。


 新しい科学的な発見がアメリカを中心に次々と提起される理由のひとつは、このアメリカ人の、合理性、自由を尊び、個人を尊重し、些(さい)事にこだわらず、大きな視点でものを見ようとする気質や、開放的な社会システムと大いに関連があるだろう。
 そして、この独創性を生む気質や社会システムは表裏をなすものであって、決して恣意(しい)的に作られたものではない。多分アメリカと同じように、日本人の潔癖、正確、几帳面で、責任を尊ぶ気質が、日本のあらゆる社会システムを作ったに違いない。そして、このことがまた日本に本当の意味で民主主義が育たなかった理由である。


 こうしてみてくると、アメリカと日本は、人のあり方について、世界の中で両極端を目指した国という感じがする。一方は個人を徹底的に主張し、他方は個人を集団の中に埋没させた。そうだとすれば、米ソ冷戦後、いったんは消えたかに見える対立軸の一方の端を日本が握っている可能性がある。
 日本は、弱点を過度に矯正することはやめて、日本人の特質を徹底的に追求し、伸ばすことで日本の新たな時代の展望を開くべきだろう。
 そして、それは日本が世界の一方の中心として、誇りを持って生きる道である。