「ブラジル紀行 テラ・ロッサと火焔樹と」

 二度目のブラジルであった。
 この度は、前回の全国議長会の視察旅行と違って、ブラジル日本移民90周年記念祝賀会に県会議長として、参加するためであった。私はこれまで、ブラジル移民の歴史について、ほとんど知識を持っていなかった。
 例のごとく、出発直前になって、資料漁りを始めた。そして辿り着いたのは1930年代の移民を取り扱った石川達三氏の小説「蒼氓」であった。


 これは神戸の移民収容所での1週間の生活から、45日間にわたる南海航路を経て、サントス港、そして配耕地に至るまでを描いた小説である。久しぶりに徹夜で一気に読み上げた。そして最後の一行を読み終えたとき、私は作中の人物とともに一条の涙が頬を伝うのを感じていた。
 「人間は最後のところでは、楽天的になれるように作られている」そう思いつつ、救われるような安堵感があったのである。長い移民の歴史、この90年の成功は全てこのことが象徴しているようにさえ思われたのである。


 戦後、日本は奇跡的な復興を成し遂げた。そして、いまや政治、経済とともに世界の主要国の仲間入りを果たした。この今こそ、日本は140万日系移民の、その苦心に答えるべきであると思う。
 そして、そのことによって、将来、日本は、ブラジルの日系社会から多大のお返しを受け続けることになるであろう。
 そして、そのことを日本国民が、もっとよく知るためには、もっと多くの「日系人と日本人」の交流が必要であろうと思うのである。今、海外への修学旅行が盛んだが、それに、いずれはブラジルが含まれていることを期待している。
 今、日系ブラジル人は政・財界、産業界あらゆる場面で活躍しているが、このブラジル移民90年から得た私の教訓は、今更ながら「全ては教育から」という思いでもあった。


 ブラジルの人口は、日本の22倍の国土に、1億6千万人を擁している。主要都市、サンパウロの人口は1千5百万人。東京以上の大都市である。世界に誇る文明国である。そして、経済的にもグレイト・セブンに迫る力を十分に持っている。
 そして、それを実現するのは、まさに「政治」である。日系人の政治参加がこの国を第1級の国にするように思うのは決してひいき目ではない。


 時にアメリカなどで、各国移民が、争乱に巻き込まれることがあるが、日系移民がその主役になることがないのは「心の文明国」日本の誇りである。
 現在、ブラジルに行くには、ロサンゼルスを経由して、24時間かかる。1つの「ベッド」にくくりつけられて、まさに苦行に他ならなかった。ふと、ラプラタ号でサントス港へ向かった、60年前の移民の心境を思った。


 ロスアンゼルス空港に近づいた時、機内アナウンスがあった。どうも医者を捜しているらしい。誰かもう一人、「本物の医者」が現れることを期待しながら、私は患者さんの居るらしい方向へと急いだ。しかし、結局、「医者は」私以外、誰も現れなかった。
 患者さんは一番後ろの席に座っていた。白人であった。意識はなかった。脈拍の張りから、血圧に異常はなさそうであったが、脈は早く結滞していた。呼吸も浅く早い。辺りには、吐き物が散らばっていた。


 私には、患者さんを横にして、ひたすら脈を診るしか方法がなかった。そして、早くロス空港に着陸して、救急隊を待つしかなかった。それは、長い時間であった。
 落ち着いて周囲をみると、患者さんの奥さんは東洋人のようだ。片言の日本語を話す。そして、その後ろに、傍らに中学生らしい女の子を従えた、流暢な日本語を話す老人がいた。この4人家族が、すなわち、1世から3世まで揃った、日系ブラジル人一家そのものであったのである。
 患者さんは日本で脳腫瘍の手術を受け、サンパウロに帰る途中のアクシデントであった。手術後の移動が早すぎた結果であったのである。サンパウロに到着したときは、私の総エネルギーの半分以上を費やしたように疲れ果てていた。


 しかし日程は、すぐ、開拓戦没者慰霊参拝、日本移民資料館視察と続く。移民資料館は2度目であるが、今回は1つ1つの資料が新鮮な意味を持って迫ってくるようであった。その中で特に目を引いたのは、東伯郡出身の明穂梅吉・配耕主任の写真であった。
 この人は、新しく、移民としてブラジルにやって来たばかりの人たちを、それぞれの耕地に配分をする絶対的な権限を持つ人として、「蒼氓」の中では、必ずしも評判の良い人物としては描かれてはいない。端整な顔立ちを、麦藁のカンカン帽で覆って、写真に収まっていた。


 翌日は、鳥取県交流センターで、終日、ブラジル日本移民90周年祝賀会が執り行われた。
 全国県人会連合会会長、中国五県県人会会長の出席の元に盛大な祝賀会であった。
 式典は、河本義永鳥取県副知事の挨拶で始まった。鳥取県議会は、浜崎芳宏議員及び広田喜代治議員も参加した。
 この、立派に新装となった、鳥取交流センターは、前回訪伯の時、松原一男議員、井上万吉議員とともに、センター建設の陳情を受けて帰ってきた結果で、その意味では、うれしくもあり、誇らしい限りであった。


 次の目的地はマリンガである。サンパウロからマリンガに向かう飛行機の下に、地平の彼方まで広がる広大なテラ・ロッサ(紫赤土)は、今でも多数の日本人を待っているようにさえ思われた。
 真夏の太陽と、赤いテラロッサと、炎のように燃える火焔樹はブラジルが異国であることを繰り返し思い起こさせる。
 ここは、浜崎芳宏議員が経営する社会福祉法人あすなろ会が、こちらの老人ホーム和順会と提携を結んでいることで知られている。


 本来の目的は、マリンガが位置する、いわゆるパラナ州県人会との交流祝賀会であった。ここには、パラグァイに移住された4家族も参加されたことが注目された。
 この祝賀会で忘れられないのは、長崎からの移民だと言われる、品のいい1世の老女の話であった。私が鳥取県の議会議長と知って、いきなり、明穂梅吉さんの話に及んだ。私が、「あの明穂さんは絶対の権力を持つ人として、いろいろ評価の別れる人のようでしたね」と言うと、「人は、神様ではありません。少なくとも、私たちにとって、明穂さんは紳士だったと思います」と涼やかに答えられた。私は、ひそやかに、その言葉の意味の深さに感服するとともに、同郷の権力者の高い評価に、ほっと胸をなで下ろしたのである。


 マリンガ市は加古川市と25年の提携の歴史を持っている。森の中にあるマリンガ市はその周辺を農園が囲む。いかにも、わが大栄町を思わせる。
 「公園都市」鳥取県のモデルになるような町である。


 ハードな日程が続く、次なる目的地は、第2アリアンサ鳥取村である。飛行機で降り立った私たちは、地平線に沈む夕日に迎えられた。
 地球の裏側のブラジルに、鳥取村がある。これは大正13年、当時の白上佑吉鳥取県知事が、この地に5千ヘクタールの土地を買い求め、県民の移住に備えたのである。
 国は移民に対し、配耕地までの旅費を支給したにすぎなかった当時のことである。驚くべき決断であったと思う。


 アリアンサとうのは「協調」という意味だが、第1アリアンサは長野県、第2が鳥取県、第3が富山県の所属となっている。
 そして、この全てに実は白上知事が関係していたのである。長野県では地方課長として、そして鳥取県、富山県ではそれぞれ知事として、この事業を主催してきたものらしい。その発想と実行力に感服すると共に、とくに、我々、政治に携わるものは、この様な進取の気性を忘れてはならないと思ったのである。


 このアリアンサでは、我々が到着したその夜、鳥取県が出資して出来た第2アリアンサ自治会館で、第1から第3までの多くの人たちが集まって、盛大に移民90周年祝賀会が催された。
 その夜、我々は、それぞれのホームステイ先へと赴いた。深更まで語り、酒を酌み交わした。時々、庭に出て夜空を仰いだが、移民が、南半球に入ったことを確認した、いわゆる南十字星はついに探し出すことは出来なかった。


 ホームステイ先の農家は、数百ヘクタールの農地を持ち、養鶏(採卵)2万数千羽を養っていた。一時的といえ、現在、養鶏はわずかだが、原価割れしているようであった。
 もう1軒は、畜産農家で、5百ヘクタールに及ぶ牧場に、6百頭のインド産の白いこぶ牛を飼っていた。
 マンゴー、パパイア、椰子の実など果物にこと欠かず、食べることに不自由することは決してない土地なのである。


 翌朝、日本語学校を視察し、別れが近づいてきた。鳥取県から派遣されている日本語教師は、評価のいい若者だ。
 我々は真夏のバスに乗って、アリアンサをあとにした。帰る場所を持っている我々は、アリアンサの人たちに、より大きな寂しさを残して行くのを背中に感じていた。